更新日:2016年04月10日
劇芸術専修
受験生へのメッセージ(鈴木 国男)
子供のころに見た舞台で印象に残っているのは、やはり劇団四季のミュージカルです。「?王様の耳はロバの耳 あれじゃ何にもきこえない きこえやしない」という歌は、今でも耳に(?)残っています。4歳くらいの時に見た歌舞伎の記憶もあります。それが『伽羅先代萩』という名作であったのは、ずっと後になってわかりました。何となく芝居の好きな子供だったのでしょうね。通っていたミッション系の幼稚園では、毎年クリスマスに劇を上演しました。年少組でのタヌキの役が俳優デビュー。年長組は本格的な降誕劇をやるのが伝統で、ここではヘロデ王に仕える学者の役で、意味もわからない長台詞を暗記して喋りました(栴檀は双葉より芳し!)。
小学校から高校まで、劇団や演劇部に入ったわけではないのですが、学芸会?学園祭などでは、よく仲間と芝居をやり、台本も書きました。でも、俳優や演出家になる才能はないと我ながらわかっていたのか、何といっても見る方が楽しかったのか、特にそうした仕事を志すでもなく、高校時代には、授業をサボって歌舞伎座の幕見や国立劇場の3階席によく通っていました。
そんなわけで、1浪して大学に入った時は、日本文学を専攻して歌舞伎の勉強がしたいと思っていました。でも、少しずつずれが生じます。まず、是非入りたいと思っていた歌舞伎研究会というのがなかったので、何となく能狂言研究会に入りました。謡や仕舞のお稽古をしたり能楽堂に通ったりして視野を広げられたのは良かったと思います。その一方で、外国に対する関心も高まってきたのです。高校時代から始めたフランス語を本格的に勉強しました。同じロマンス語に属するイタリア語の授業も受けるうちに、そちらの方に魅力を感じるようにもなっていました。いずれにしても、演劇の勉強をしたい、という気持に変わりはありませんでした。しかし、やはりその大学には演劇学科のような所がなかったので、何らかの文学を専攻するしかありませんでした。そんな中で、2人の恩師との出会いがありました。フランス文学の西本晃二先生と、演劇学の河竹登志夫先生です。河竹先生には非常勤講師として半年教えて頂いただけなのですが、本格的な演劇教育を受けたことのない自分としては、演劇学の師が河竹先生であるということが今でも心の拠り所となっています。一方、西本先生は、新しく出来たイタリア文学科の主任教授となり、私もその学科の一期生として、先生の下で本格的にイタリア語?イタリア文学の勉強を始めました。
イタリア演劇の研究。ようやく自分の目指す道が見えてきて、大学院に進学し、イタリア政府給付留学生として、ローマ大学演劇研究所に学ぶことになりました。たまたま『戦艦大和の最期』の著者である吉田満氏の子息が高校の同級生だったことから紹介を得て、塩野七生さんとお会いする機会がありました。フィレンツェのお宅にも何回かお邪魔して、色々なお話をうかがいました。大学にこもって研究するだけでなく、あちこ